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夏野菜 [菜園]

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連休初めに夏野菜を植えました。

トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウ、スイカなど。

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ところが、連休中は天気が不安定で強風やひょうなどに見舞われ、

トマト用の雨除け支柱が吹き飛ばされた。

苗はビニールトンネルをしていたので被害はなかったが、

収穫まじかのソラマメやスナップエンドウが倒伏。折れた茎もけっこうあった。

昨年植えたものは葉物が多かったので、風の被害は特に感じなかったが、

夏野菜は支柱やネットを立てるものが多く、風の影響をまともに受けてしまうのだ。

風を甘く見ていたわけではないが、支柱の立て方に問題があったのだと思う。

吹き飛ばされた雨除け支柱を見ながら畑で呆然としていたら、

近所のおばあちゃんがやってきた。

風の強い時はビニールを取ったほうがいい、と言う。

風で苗がダメになったらまた植えればいい、と。

そういう達観した気持ちに、僕はまだなれないが、

おばあちゃんの言うことは、もっともな気がした。

そのおばあちゃんは、同じ場所にトマトを19年植えてるらしい。

連作は大丈夫ですかと聞いたら、

「なーんも、問題ないっ!」と豪語した。

肥料は、漁師の旦那さんが獲ってきた魚の頭をくれてやるそうだ。

そのおばあちゃん、種も自分でとっているらしく、

「苗なんか、買ったことねーぞ!」とふたたび豪語した。

こういう達人の話はほんとうに面白い。

連作を気にして栽培計画を立て、せっせと苗や堆肥を買ってしまう自分が情けなくなる。

昨年10月末に植えた玉ねぎがもう少しで収穫できそうです。

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ニンニクもそろそろかな。

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じゃがいもは、連休中の風にもめげずしっかりと成長しました。

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レタスは、結球が始まっている。

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ブルーベリーも、今年は花が咲いたので少しは収穫できそう。

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育苗中のゴーヤ、エゴマ、空芯菜、オクラ、ターツァイをそろそろ定植します。

修司忌 [寺山修司]

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5月4日は、寺山修司の命日。修司忌。

僕が十代の頃、最も先鋭的で影響力を持った人物は、まぎれもなく寺山修司だった。

寺山修司の肩書は無数にある。

「天井桟敷」主宰として有名だが、劇作家、演出家、詩人、俳人、歌人、作詞家、

エッセイスト、映画監督、小説家、写真家、 競馬評論家…

多彩な経歴をもっているが、デビューは歌人としてだった。

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「われに五月を」は、寺山修司が十代の時に書いた作品集。

十代の頃のみずみずしい感性が、言葉によって永遠に焼き付けられている。

「二十才 僕は五月に誕生した

僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる

いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で

はにかみながら鳥たちへ

手をあげてみる

二十才 僕は五月に誕生した」


寺山さんはいつも、はにかんでいた。

はにかみながら、とてつもない言葉が機関銃のように出てくる。

そして、魅惑的な嘘をつく。

「子供の頃、映画館のスクリーンの裏で暮らしていたので、

僕の部屋の壁には、いろいろな人生がさかさまに映っていたんです」

なんてことをぼそっと言ったりする。

十代の僕はそんな話をずっと信じていた。


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東由多加について [東京キッドブラザース]

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「東京キッドブラザース」という劇団があった。
「天井桟敷」で演出をしていた東由多加が、下田逸郎らと結成したロックミュージカル劇団で、
1968年~2000年まで活動を続けた。
1970年のNY公演「The Golden Bat」は、「完璧な独創性」と絶賛され、
オフ・ブロードウェイで10ヶ月のロングランを成し遂げ、
エド・サリバンショーにも出演を果たした。

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その頃の僕は、東由多加の作り出す鮮烈で時代を疾走するような演劇に強く惹かれていた。
「東京キッドブラザース」の演劇には、少年が空に向かって叫ぶような無邪気さや、
草原の中を、どこまでも走りつづけけるような若さ、
あきれるほどに澄んで透明なロマンチシズムがあった。
「東京キッドブラザース」の客層は不条理や観念的なものを好む左翼っぽい演劇青年より、
ミュージシャンとかイラストレイターとかアート系の人たちが多かったような気がする。
当時、劇団には俳優以外に大勢の若者たちが出入りしていた。
俳優になる前の柴田恭兵、小椋佳、モデルの山口小夜子、作詞家の岡本おさみ、
ヒカシューの巻上公一や井上誠、元全共闘委員長の秋田明大らも事務所によくいた。
将来のことは何も分からないが、毎日が刺激的だった。

しかし、いつまでも劇団にいるわけにもいかず、僕も就職して社会人になった。
1980年代に入ると「東京キッドブラザース」は、柴田恭兵や三浦浩一、坪田直子、純アリスなどのスターも生まれ、大劇場での公演もこなすメジャーな演劇集団として活動していた。
僕は30代になり、いつしか「東京キッドブラザース」から、だんだん足が遠のくようになっていった。
実を言えば「東京キッドブラザース」の演劇にかつての衝撃や共感を感じられなくなっていたのだ。
年をとったということかもしれない。
40歳を過ぎても、愛や連帯を本気で叫び、それを信じようとしている東由多加が
僕には理解できなかった。
愛とか連帯とか、そんなものは遠い昔に通り過ぎていったものじゃないか、と。
ひとりで見る夢も、みんなで見る夢も、現実の中ではぼやけていってしまうものじゃないか、と。
30歳を過ぎて、つまらない現実に心を砕いて生きていた僕は、かつての青春から後ろを向いて別の道を歩もうとしていた。
寺山修司の言葉通り「さよなら、フラワーチルドレン」という心境だった。
東由多加と最後に会ったのは、1999年6月、「東京キッドブラザース」が公演をした恵比寿の劇場だった。
舞台の上で俳優たちが訴える愛と連帯は、なぜか照れくさくて、
僕は居心地の悪さを感じながら席を立った。
終演後の劇場のロビーに佇んでいると、
いつものようにすべてを敵に回したような鋭い目つきで東由多加がやってきた。
「これが、最後の公演です」
そう言って、穏やかに微笑えんだ。
僕は曖昧に笑うことしかできず、話はそれで終わった。
東由多加が癌に侵されていることを知ったのは、その少し後だった。

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2000年4月20日。
東由多加が食道癌で亡くなった。54歳。
病院のベッドで野球のナイター中継を見て、テレビのスイッチを消し
「もう、いいや」と、つぶやいて横になったそうだ。
そして、それが最後の言葉になった。
葬儀の日は雨男の東由多加らしく土砂降りの雨だった。
「東京キッドブラザース」の大切なイベントや公演の初日には雨が降ることが多かった。
東由多加の没後、「東京キッドブラザース」は、劇団としての活動を終了する。
闘病の顛末は柳美里の「命」というエッセーに書かれ、映画にもなった。

今日4月20日は、東由多加の13回忌。

1978年に僕が作ったキッドのプロモーションビデオです。



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漂泊の歌人 下田逸郎 [東京キッドブラザース]

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16歳の時から現在まで、僕が40数年聴き続けている音楽家がいる。

下田逸郎という人だ。

70年代のヒットソング「セクシイ」や「踊り子」などの作者として記憶している人も多いと思う。



下田逸郎は60年代末に、寺山修司が主宰する「天井桟敷」の演出家だった東由多加らと

「東京キッドブラザース」を結成した。

1970年にはロックミュージカル「The Golden Bat」を

NYのオフ・ブロードウェイで上演し10ヶ月のロングランを成し遂げた。

下田逸郎の音楽の独創性は高く評価され、ニューヨークタイムズは彼を

「天才」ともてはやした。

「東京キッドブラザース」の演出家東由多加との2ショット。

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僕が初めて彼の音楽を知ったのもその頃だった。

日本的抒情の中にある、しなやかな美しさとはかなさに惹かれ、

ツェッペリンやピンクフロイドと同じように「東京キッドブラザース」の

『黄金バット』というライブレコードを毎日のように聴いていた。

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下田逸郎はNYから帰国後、「遺言歌」というレコードを制作し

「東京キッドブラザース」を離れ、日本を脱出する。

寺山修司や東由多加らの脚本に音楽を付けていた下田逸郎にとって

「遺言歌」は初のオリジナルアルバムだった。

そのアルバムのインナースリーブには、こう書かれていた。

「私は天才の道からはずれて 神の道を歩むつもりです 皆様いつまでも平和に 

それではお元気でさようなら」

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その後、フランスやスペインを放浪した後、NYの「Cafe Lamama」で自作のミュージカルを上演。

1973年に帰国し、セカンドアルバム「飛べない鳥飛ばない鳥」を制作。

下田逸郎の音楽は、それまで自分が聴いたことのない領域の曲で、

歌詞をかみしめるような独特な唄いかたが僕を魅了した。

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1975年、下田逸郎はラヴソングの歌い手として矢沢永吉らとともにCBSソニーからデビュー。

「セクシイ」「踊り子」「ラブホテル」などを歌い、石川セリや松山千春などに楽曲を提供していたが、

売れる曲を求める業界と、歌いたい曲を作ろうとする自分の歯車がきしみ始め、

30代半ばで音楽活動から手を引いてしまう。




1984年、またしても日本を脱出し、しばらくエジプトに滞在していた。

帰国した後は長崎、沖縄、種子島、北海道などを放浪し、木こりや漁師、養豚などの職を

転々としていたという。

僕は30代になっていたが、その間も下田逸郎のレコードをずっと聴いていた。

「やっぱり自分には歌しかない」

下田逸郎は40代で活動を再開した。

ただ売るための歌ではなく「本当に作りたい歌をやろう」と決めて。



1989年、下田逸郎は東京に戻り、年1枚のペースでアルバムを発表していく。

2010年にはNYの「Lamama」で4日間のライブも行われた。

いっさいの飾りを廃した丸裸の状態で歌われる40年分の歌は、

どれも今生まれたばかりのような輝きを放っていた。

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終わることのない愛

実ることのない愛

それをどこまでも追いかける

人間の透明な瞬間

あきらめながら 捨てながら

それでも 浮かび上がろう 飛ぼうとしている時

人間の美しさとさびしさが

ひとりひとりの闇にピーンと張りつめた時

ホントの唄があります

帰ること 旅立つことは同時に起こります

どこまで深く帰って どこまで深く旅立つか

そんな人間のラブソングを唄います

下田逸郎

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共同生活 [東小金井]

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1970年代の中頃、東小金井にあった米軍ハウスを月7万円で借り受け、

友人たちとシェアして暮らしていた。

福生や立川の米軍ハウスとは違い2階建ての5DKだった。

Aホワイトハウス 03.jpg

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5つある部屋を5世帯で借りると一部屋15,000円ぐらい。

共同だがキッチン・浴室・トイレもついていたのでアパートを借りることを思えば

安かったと思う。

台所にはGE製の大きな冷蔵庫があり、使い方のわからないガスオーブンがあった。

引っ越す前は3畳一間に家内とふたりで暮らしていたので

14畳の屋根裏部屋はとてつもなく広かった。

古道具屋で米軍払い下げの安い家具を買って、その空間を埋めた。

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僕たち以外に2組のカップルがいたので、その家には5世帯8人の住人と

2匹の猫が暮らしていた。

毎夜、どこかの部屋にみんなが集まり遅くまで過ごした。

それぞれの住人が別々の友人を連れてくるので

キッチンに行くと知らない人がコーヒーを飲んでいたりした。

誰かが食事を作り始めると、みんなが加わって全員で食べることも珍しくなかった。

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お金が無くなるとバイトに出かけ、僕たちは家族のように暮らした。

あの頃は、共同体やコミューン幻想のようなものをみんなが抱いていた。

「そういう時代」だったのかもしれない。

ささやかないさかいや、わだかまりがなかったわけじゃない。

それでも、お互い助け合い、いたわりあいながら家族のように暮らした。

こういう暮らしは、いつか壊れるものだということもみんな知っていた。

制度や血縁によって結ばれてない関係のなかで、みんなが「家族のようなもの」を

作り上げていたのだと思う。

2年後、ハウスは取り壊されることになり僕たちはハウスから出て行った。

それぞれ別々に暮らすことになるが、その後も途切れることなく僕たちは会っていた。

あれから40年近く経つが、その時のメンバーとは今でも親密に付き合っている。


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